とつくづく思う。
まぁ、世の中にはひどい親・兄弟も居たりするので、
それぞれだろうが、私にとっては家族は助かる存在だ。
あんまり言うと照れくさいので、
アレだが、私という人間を構成する上で、
多くの部分を家族が与えてくれたと思う。
良いところも悪いところもすべてひっくるめて、
家族あっての私である。
今は、自分の家族も持っているが、
これまた妻と娘あっての私である。
持つべきものは家族である。
~~~~~~~~~~~~~~~
少し話が変わるが、
自分の存在について考えてみた。
自分の存在が他者からの認識によって成り立つとするならば、
家族こそ一番近くの他者であり、自分を存在させる重要な要素だ。
お互いの認識によって存在が確立しているとしたならば、
利己的な行動は自分の存在を危うくさせるだろう。
ならば人は利他的に行動し他者を喜ばせることで、
自分が幸せだと感じられる方がきっとうまく存在できるはずだ。
他者をそのように変えることはできないが、
自分がそのように変わることは可能だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もう少し脱線しよう。
「与えなさい痛みを感じるまで」とマザー・テレサは言ったそうだが、
この「与える」というのは豊かな日本においては注意が必要そうだ。
「物」を「与える」のは「物」が本当に必要ならば良いのだが、
本当に与えるべきは「気持ち」ではなかろうか。
「気持ち」は「感情」でも良いかもしれない。
一番身近な「感情」を与えてくれる存在はやはり「家族」でなかろうか。
~~~~~~~~~~~~~~~
さらに脱線。
そう考えると愛情の反対が憎しみではなく無関心というのは、
正しいと思われる。
無関心は場合によっては残酷だ。
当事者には残酷さが認知できないから深刻だ。
みんな、家族や友人・同僚に関心を持ってるだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿