2010年5月24日月曜日

持つべきものは実家

とつくづく思う。

まぁ、世の中にはひどい親・兄弟も居たりするので、
それぞれだろうが、私にとっては家族は助かる存在だ。

あんまり言うと照れくさいので、
アレだが、私という人間を構成する上で、
多くの部分を家族が与えてくれたと思う。

良いところも悪いところもすべてひっくるめて、
家族あっての私である。

今は、自分の家族も持っているが、
これまた妻と娘あっての私である。

持つべきものは家族である。

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少し話が変わるが、
自分の存在について考えてみた。

自分の存在が他者からの認識によって成り立つとするならば、
家族こそ一番近くの他者であり、自分を存在させる重要な要素だ。

お互いの認識によって存在が確立しているとしたならば、
利己的な行動は自分の存在を危うくさせるだろう。

ならば人は利他的に行動し他者を喜ばせることで、
自分が幸せだと感じられる方がきっとうまく存在できるはずだ。

他者をそのように変えることはできないが、
自分がそのように変わることは可能だ。

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もう少し脱線しよう。

「与えなさい痛みを感じるまで」とマザー・テレサは言ったそうだが、
この「与える」というのは豊かな日本においては注意が必要そうだ。

「物」を「与える」のは「物」が本当に必要ならば良いのだが、
本当に与えるべきは「気持ち」ではなかろうか。

「気持ち」は「感情」でも良いかもしれない。
一番身近な「感情」を与えてくれる存在はやはり「家族」でなかろうか。

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さらに脱線。

そう考えると愛情の反対が憎しみではなく無関心というのは、
正しいと思われる。

無関心は場合によっては残酷だ。
当事者には残酷さが認知できないから深刻だ。

みんな、家族や友人・同僚に関心を持ってるだろうか。

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